平山郁夫が描く作品は、時代とともに変化してきました。
作品のテーマの変遷とそこに込められた意味や背景をご説明いたします。
平山郁夫は中学3年生のときに広島市内で原爆投下を体験しました。広島の惨状を目の当たりにし九死に一生を得た平山は、平和の祈りを込めて絵を描きたいと思うようになります。東京美術学校(現・東京藝術大学)での卒業制作のテーマを考えるときに、知人は「君は被爆体験をテーマにすればいいのではないか」と言いましたが、当時のことを思うだけで悪夢にさいなまれる日々でした。そのときに思い起こすのが、被爆後にお世話になっていた清水南山(しみず・なんざん)という伯父の言葉でした。東京美術学校の工芸の教授であった清水南山は、「芸術とは美しいものを表現すること」と常に平山に伝えていました。仏教では、蓮の花は泥水に咲くと言われます。争いごとが多い世の中でも、染まらずに清く生きることの例えです。平山の作品には、平和の祈りが通奏低音のように流れています。
東京美術学校を卒業し、東京藝術大学の前田青邨教室の副手となった平山郁夫は、東北地方への取材旅行に学生を引率しますが、道中で凄まじい吐き気とめまいに襲われます。医者からは、通常の半分しか白血球がなく原爆症だと言われたのでした。画家としての道を歩み始めたところなのに、このまま死んでいくわけにはいかない。一点でよい、自分の気持ちを注ぎ込んだ作品を描きたいと三蔵法師・玄奘を描いた作品が《仏教伝来》であり、平山はここから画家としてのスタートを切ることになります。
仏教の世界を描く中で、平山郁夫は仏教及び日本文化の源流であるシルクロードへの憧れを強く持つようになりました。また、《仏教伝来》で描いた三蔵法師・玄奘のインドへの旅の追体験を願うようになります。
平山は、1966年に東京藝術大学の学術調査団の一員としてトルコ・カッパドキア地方の洞窟修道院の壁画模写事業に参加します。これが平山のシルクロード人生の始まりでした。
シルクロードは古代の商品が行き交った道。運ばれたのは物質だけではなく、思想や人の心、宗教や文化が、ラクダの背に積まれた品物と一緒に伝わりました。
戦争が始まるとこうした交易は途絶えてしまいます。平和だからこそ人びとが行き交うことができるのです。平山にとってラクダのキャラバンは平和のシンボルでもあります。
「過酷な自然環境に耐えながら、生活を切り開いてきた大陸の文化とは違い、日本人は古代から自然と調和するように生きてきました。自然の借景を活かし、建物と風景が一体となるような日本人の造形感覚は、西洋の幾何学的な見方とは明らかに異なったものです。シルクロードの乾燥した砂漠地帯を旅して帰ってくると、私は無性に日本の潤沢な緑が描きたくなります。」
平山郁夫は、人びとの交流の積み重ねである道や歴史文化遺産を好んで描きました。
平山郁夫は、日本文化の源流をたどる取材を続けるなか、散逸や崩壊の危機に瀕する文化財を目の当たりにします。早急な保護・救済活動の必要性を痛切に感じた平山は、戦場で傷ついた人を敵・味方の区別なく救う赤十字社の理念に倣い、文化財にも同様な保護・救済を行う運動を提唱し実践しました。
中国、アフガニスタン、カンボジアをはじめ世界各国で保護活動を実施し、現在も活動は受け継がれ、国際的な広がりを見せています。
※「平山郁夫美術館蔵」の表記は、平山郁夫美術館に寄託していただいている作品も含んでおります。