平山郁夫は1943年(昭和18)3月、瀬戸田国民学校を卒業後、広島市内の私立修道中学校に進学しました。太平洋戦争の戦時体制下でもあり、寄宿舎の食生活の貧しさから体調を崩して、2年生の夏休み明けに下宿住まいを始めました。孤独と空腹をまぎらすために絵を描くのが唯一の楽しみでした。
1944年には学徒勤労動員方策が定まり、病弱な体をおして自ら志願して働いていましたが、翌1945年7月からは広島市霞にあった広島陸軍兵器補給廠(現在の広島大学医学部)に通っていました。
8月6日は、補給廠から少し離れた渕崎(現在の仁保町)にあった補給廠の材木置き場での作業でしたが、午前8時の点呼のあと、平山郁夫は作業小屋の外で一人、晴れた空を眺めていました。
純白の落下傘に気づき仲間に報せに小屋に入る、と同時に背後から大閃光に包まれました。原子爆弾の投下でした。爆心から4キロ弱の地点でしたが、一度爆心から2キロ弱の寄宿先に戻ったり、比治山橋のたもとまで様子を見に行くなどした後、地獄絵さながらの広島を逃れて生家に向かい、翌朝帰りつくことができました。
15歳の中学生が受けた、生涯、心と身体にのこる体験であり、後に作品《仏教伝来》を始めとする仏伝とシルクロード連作へ続く画業の原点となりました。被爆したときも肌身離さず持っていた中学生時代の作品は、平山郁夫美術館でみることができます。
被爆後、体調を崩してしばらく寝込んだこともあり、終戦後の11月、三原近郊の広島県立忠海中学校へ転校しました。